古い洋館と言うと明治の建物を思い浮かべる。
このサイトでもそんな洋館を訪れているのだが、そう言った場所で印象に残る名前が
ジョサイア・コンドルである。
そのジョサイア・コンドルは、1852年生まれ、イギリスはロンドン出身の建築家だ。
近代以降の日本の建築史や建築家の育成と言った分野に多大な影響を与えた人物らしい。
20台半ば、本国で頭角を現していたコンドルはで日本政府にスカウトされ来日する。
いわゆる、お雇い外国人として工部省の顧問を勤め鹿鳴館や宮内省本館など政府関連の
歴史的な建物の設計に携わっている。
また、工部大学校(現・東大工学部建築学)に講師としても在籍し後進の指導に当たっている。
後には、民間で自ら建築設計事務所を起ち上げ、岩崎家や三菱関連などを中心に財界要人の
邸宅を多数設計したのだと言う。
プライベートでは、狩野派の河鍋暁斎に絵を学び、日本舞踊の師匠と結婚するなど
日本文化の中に暮らし、大正9年、67才の歳に東京で逝去するまで日本で生きた。
※東京大学工学部の前に立つ
ジョサイア・コンドルの雄姿。
丸の内最初のオフィスビルとして誕生したのが三菱一号館だ。
明治期の丸の内に一丁倫敦と呼ばれた煉瓦街が形成される契機となった建物である。
当時は、銀行などのテナントが入っていたのだという。
現在の建物は、2010年に再建されたレプリカで、岩崎家のコレクションなどを展示する美術館となっている。
ニコライ堂は明治24年に完成した正教会の大聖堂で重要文化財の建物。
依頼主は、名前の由来であるロシア人修道司祭ニコライ・カサートキンだ。
建築に際し、当時の設計にはコンドルが携わっていたとされる。
しかし、関東大震災で大損害を受け、現在の建物は昭和4年に岡田信一郎の設計により改修、再建されたものだ。
それにより、コンドルの設計とは外観が変わっているのだと言う。
とは言え、コンドル設計の建物にはニコライ堂のように再建されることなく、
関東大震災により失われたものも多い。
護国寺は、大隈重信や山県有朋など近代の著名人が数多く眠る場所だ。
コンドルの墓所もこの護国寺にあり、傍らには史跡として案内板も立っている。
以下は、案内板の記述にあるコンドルの略歴。
「ジョサイア・コンドルは1852年ロンドンに生まれ、大学で建築学を学び、のち、日本政府の要請により明治10年(1877)来日した。
当時我が国は文明開化政策の中で各国より幾多の文化をとり入れたが、西洋建築に関しては手さぐりの状態であった。
彼は、工部大学校(東京大学工学部の前身)教授として学生を指導するかたわら、鹿鳴館・ニコライ聖堂・岩崎邸・旧古河邸等多くの建築物をつくり、我が国の近代建築の基礎形成に貢献した。
また、辰野金吾、片山東熊、曾禰達蔵ら多くの俊才を育てた。
一方、『日本の造園』『日本の華道』を著すなど、日本研究の分野でも活躍し、我が国の文化・芸術を海外に紹介した。
日本を愛したコンドルは、日本女性クメ夫人とともにこの地に永眠している。」