歴史的、文化的と感じるスポットとして“庭"というジャンルがあるかと思う。
その“庭"に関する人物として頭に浮かぶ一番手(個人的主観)が小堀遠州だ。
正式名称を小堀政一と言う、江戸初期に活躍したいわゆる茶人大名の一人である。
まず、その身分については、備中松山藩2代藩主のち近江小室藩初代藩主とあるので、
一万石ちょっとの小身ながらも立派な殿様だ。
言わば公職に就いていた遠州は、文化的な趣味ばかりに生きていた分けではなく、
作事奉行などとして活躍している。
“遠州"と言う通称は、駿府城修築の奉行として職責を全うした功により“遠江守"に
叙任された事に由来するのだという。
他にも、奉行として備中松山城の再建、名古屋城天守の造営、後陽成院御所の造営等に携わっていたようだ。
茶人としては、古田織部の流れを組み、生涯に400回あまり2000人との茶会を開いたそうで、後に遠州流茶道の祖と呼ばれる。
まさに、一時代を築いたと人物言っても良いであろう。
このように見ると、単に“庭の人"ではなく、特技の一つとして造園技術を持っていたと言うことになる。
その造園分野では、南禅寺、大徳寺、桂離宮、仙洞御所など主立ったものは京都に集中しているようである。
とは言え、東京にも小堀遠州に由来するとされる場所はあり、そのいくつかに訪れている。
お馴染みの浅草寺にも小堀遠州のゆかりの場所がある。
浅草寺の本坊にあたる伝法院には回遊式庭園があり、
小堀遠州が寛永年間に造ったと伝わるものらしい。
通常非公開であるが、画像は特別公開された時のもの。
池上本門寺にも小堀遠州作と伝わる庭園がある。
その「松涛園」は、約4000坪あるという回遊式庭園だ。
だた、こちらも普段は非公開で、画像は朗峰会館のガラス越しに見たもの。
幕末の江戸城明け渡しに際して西郷隆盛と勝海舟が会見を持ったとされる
歴史的な場所でもある。
ある意味、最もお馴染みのスポットと言えるのが、この皇居 二の丸庭園であろう。
現在のものは、言わば復刻版であるが、オリジナルは小堀遠州の作と
伝わる庭園であったらしい。
遠州の庭がブームになっていたことを窺わせる場所の一つと言えるだろう。
昭和43年に江戸時代の図面を元に復元したものだという。
上野公園にある国立博物館は、江戸時代の寛永寺本坊の跡地で、
本館の裏手に回遊式の日本庭園がある。
ここでも、地味に小堀遠州ゆかりのものを見ることが出来る。
京都から移築されたという茶室「転合庵」は、遠州が伏見に
建てたものであるという。
この庭園は、春と秋に期間限定で開放されている。
大名 小堀政一を忍ばせる一品だ。
江戸初期の物とあるが、具足は戦国時代に流行した鎧のタイプで戦乱の時代も知る武士らしい遺品である。
以下の解説文がある。
全体を黒と紺糸でまとめ、兜の前立には鍍金の輪貫、胸の鐶の座には七宝の花輪違紋の金物、籠手には金箔押し透漆がけとした白檀塗の金物を用いている。
遠州流の茶道の祖として知られる小堀遠州守政一(1579-1647)所用として小堀家に伝来した具足である。
江戸時代の東海寺は、江戸でも代表的な寺院の一つであったようだ。
現在は、やや地味な印象のお寺であるが、ちょっと離れた大山墓地に
初代住職だった沢庵宗彭の墓所がある。
この沢庵が、茶道では小堀遠州の門人だった人物らしいのだ。
そして、この墓をデザインしたのが遠州であるという。
小堀遠州をルーツとする茶道の流派に“遠州流"と言うものがあるらしい。
それには、作庭技術の方も継承されているようで、川越の喜多院には、
その“遠州流"で造られたという庭園がある。
案内板によると、タイトルが「曲水の庭」で“枯山水書院式平庭"なんだとか。
この庭は、書院などの建物と一緒(有料)に見学出来る。