HOME<<人物編<<太田道灌


太田道灌と言えば江戸城の築城で有名な室町期の武将だ。 時は、室町将軍8代目足利義政の時代、京は応仁の乱による複雑怪奇な権力抗争が繰り広げられていたが、 関東でも鎌倉公方と関東管領などにより、これまた激しい主導権争いが勃発していた。
そして関東においては、これが、戦国時代の幕開けへと繋がる。
その争乱の中で、エースとして頭角を表したのが扇谷上杉家の家宰であった太田道灌である。
主に享徳の乱と続く長尾景春の乱で活躍し、主流ではなかった扇谷上杉家を関東の覇者へと引き上げるかと思えたが・・・ 主家である扇谷上杉を凌ぐ名声と実力を得た、道灌はその主君に謀殺されてしまう。
最期の言葉とされる「当方滅亡」からは、非常な無念と怨念を感じる。
その後、関東の覇権は、いづれの上杉も公方も握る事はなく、後北条氏が手にすることとなる。
しかし、江戸を本拠地として活躍していた道灌は、現在の東京にも多くの足跡を残している。


江戸城(皇居)−道灌が築城


平川門


現在の江戸城は、もちろん徳川時代の遺構であるが、江戸城の元祖と言えるのが太田道灌であるのはよく知られる所だ。
記録上、初代の江戸城は、長禄元年(1457年)、道灌が敵対勢力に属する千葉氏への抑えとして築城したものだという。
もちろん、江戸期のものから見れば、かなり小規模なものであったはずだ。
現在、道灌時代のものが、そうそう残っているものではないが、二の丸から本丸に上がる梅林坂などは道灌が植えた梅に由来するものであるという。
また、平川門付近の大手濠沿いには、道灌没後450年記念で建立されたという道灌公追慕の碑なるものがある。


大手門 天守台 道灌公追慕の碑

築土神社(九段北)−道灌が創建?


九段にある中坂を下るとビルの合間に忽然と現れる神社がある。
平将門関連施設としても知られる、この築土神社も道灌による江戸城築城にゆかりがある場所だ。
築城に際して、将門の例を祀ったとする説と、築城に伴い場外に移転したという説があるらしい。

築土神社 築土神社 築土神社

日枝神社(永田町)−道灌が創建


永田町の外堀通り沿いにあって、境内に上がるエスカレーターが印象的な日枝神社も江戸城ゆかりの神社だ。
文明10年(1478年)、道灌が江戸城築城にあたり、川越日枝神社を勧請したのだという。
江戸、明治を通して、とてもステータスの高い神社で、特に江戸三大祭の一つとされる山王祭で有名だ。

日枝神社 日枝神社 日枝神社

櫻木神社(本郷)−道灌が創建


東京大学の近所、本郷にあるこの小さな神社も道灌と江戸城にゆかりの神社だ。
文明年間、道灌が京都北野から菅公を江戸城内に勧進した事に始まるということで、当時は江戸城内にあったらしい。
祀られているのが菅原道真となれば、必然的に現在は合格祈願の場所となっている。

櫻木神社 櫻木神社 櫻木神社

柳森神社(神田須田町)−道灌が創建


秋葉原電気街から神田川を渡った神田須田町にある柳森神社も江戸城ゆかりの神社だ。
長禄2年(1458年)道灌が江戸城の鬼門除として京の伏見稲荷を勧進し、多くの柳を植えたのだという。
稲荷神社であるが、「お狸さん」で知られる江戸名所で、現在も狸が幅を効かせている。

柳森神社 柳森神社 柳森神社

太田姫稲荷神社(神田駿河台)−道灌が創建


神保町の書店街からほど近い駿河台に太田姫稲荷神社がある。
なんでも、道灌の娘が天然痘を患った際に祈願した京都一口稲荷神社を、長禄元年(1457年)に江戸城内に勧請してことに始まるという。
江戸期に神田に移され、神田駿河台の鎮守となっている。

太田姫稲荷神社 太田姫稲荷神社 太田姫稲荷神社

青松寺(愛宕)−道灌が創建


愛宕山のとなり、愛宕グリーンヒルズの中に大きな山門を構える青松寺は、江戸の曹洞宗を統括したとされる寺院の一つだ。
青松寺も道灌が文明8年(1476年)に創建した寺院で、当初は、麹町貝塚(現在の千代田区麹町)にあったという。
現在の建造物は、古いものではない(昭和製らしい)が、立派な門や本堂があり、有力寺院だった歴史がうかがえる。

青松寺 青松寺 青松寺

吉祥寺(本駒込)−道灌が創建


本駒込の本郷通り沿いに吉祥寺の地名の由来となったお寺がある。
地名の吉祥寺は、明暦の大火に際して、吉祥寺の門前町(当時、水道橋付近)から移住した人々により開かれた町である。
寺院の方の吉祥寺は、長禄2年(1458年)、道灌により現在の丸の内(和田倉門付近)に創建されたという。
江戸時代、かなり繁栄した寺院で、現在も多くの大名や著名人の墓所が残っている。

吉祥寺 吉祥寺 吉祥寺

妙義神社(駒込)−道灌が戦勝祈願


駒込駅から本郷通りを王子方面に下る妙義坂の途中に、妙義神社の参道がある。
妙義神社は、大和武尊伝説を由来とする小さな神社であるが、ここも道灌ゆかりの場所だ。
道灌は、足利氏、豊島氏、千葉氏との戦いの際し、この神社を戦勝祈願に訪れ、いずれも勝利を収めたという。
境内には、道灌を祀る末社もある。

妙義神社 妙義神社 妙義神社

平塚神社(北区西ヶ原)−道灌により落城


西ヶ原の本郷通り沿いにある源氏ゆかりの平塚神社は、平塚城の跡地とも言われる場所だ。
平塚城は、石神井城を本拠とする豊島氏の支城であったが、道灌との合戦に破れ落城したのだという。
境内にある老舗和菓子屋“平塚亭つるをか”は、浅見光彦ファン御用達の人気店なのだとか。

平塚神社 平塚亭 平塚神社

道灌山・諏訪台(西日暮里)−道灌の出城?


太田道灌

日暮里界隈でも道灌の名前を度々目にする。
西日暮里駅前を走る道路は道灌山通りで、開成学園がある辺りは道灌山と呼ばれた場所だ。
西日暮里駅から坂を上がると諏訪台で、西日暮里公園には道灌山について案内板がある。
その由来については、道灌が豊島氏との抗争に際して出城を築いたとする説があるらしい。
江戸時代の日暮里は人気の行楽地で、月見寺と呼ばれた本行寺には、 その昔、道灌が斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったといい、境内には、小林一茶の句碑
“陽炎や道潅どのの物見塚”や道灌丘碑が建っている。
本行寺の創建は、道灌の孫の太田資高で、当初は江戸城内にあったという。
さらに、JR日暮里駅前には道灌の騎馬像も建っている。


西日暮里公園 道灌山通り 本行寺

湯島天神−道灌が再建


受験の神様、あるいは梅祭りで有名な湯島天神も道灌の足跡が記されている場所だ。
創建は伝説の域に入りそうな雄略天皇2年とされるが、文明10年(1478)に太田道灌が再建しているのだという。
その後、江戸幕府の下でも庇護を受け、現在に至るまで信仰を集める人気の神社である。
東京の寺社には、道灌による移築、再建、寄進などの記録が残るところが少なくない。
道灌が重要視した場所が、踏襲され江戸時代での繁栄に繋がるケースが多かったのではないかと思う。

湯島天神 湯島天神 湯島天神

根津神社−道灌が社殿を造営


ツツジの名所として有名な根津神社も道灌ゆかりの場所だ。
ここの神社も創建は、大和武尊伝説に遡る古社であるが、文明年間に太田道灌が社殿を寄進している。
江戸期には、徳川家と縁の深い神社として高い格式を誇り、現在の建物は、5代将軍 徳川綱吉が建てたものであるという。

根津神社 根津神社 根津神社

山吹の里碑(面影橋)−道灌の伝説


都電荒川線の面影橋停留所から神田川を渡るとオリジン電気の門前に山吹の里碑が建っている。
内容は、和歌の素養にも優れていたという道灌の伝説的エピソードである。

太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。
後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の み(実)の(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた
道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという。

ただ、山吹の里の場所については、他にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などの説があってはっきりしないらしい。

山吹の里碑 山吹の里碑 山吹の里碑

報恩寺(墨田区大平)−道灌が創建


報恩寺


両国と亀戸の中間あたり、蔵前橋通り沿いの旧本所出村町(墨田区大平)に道灌の魂が眠る場所がある。 歴史上の有名人には、複数の墓所があるケースが少なくないが、ここもその一つと言えるだろう。
報恩寺は、道灌が、江戸城築城に際して長禄2年(1458年)に創建した寺院であるという。当初は江戸城平川口に建立され、 孫の太田資高が法恩寺へと改称したものらしい。
元禄期に現在地に落ち着くまでは、移転を繰り返していたというが、現在も参道にはいくつかの子院が並ぶ大きなお寺だ。
境内には、太田道灌の供養墓(五輪塔)や、山吹の里のエピソードを描いた道灌公記念碑が建っている。


報恩寺 報恩寺 報恩寺

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